新世紀エヴァンゲリオン-if- 

 外伝 拾 二人のコトバ、溶け合うココロ

 -前 編-


 廃墟と化した第三新東京市。その瓦礫の上を、芦ノ湖から流れ込んだ水が覆って
 いた。

 かつては立派な建物だった物の変わり果てた姿が累々と並び、水の上にその一部を
 覗かせていた。そして、その景色を悲しむかのように、鉛色の空からは静かに雨が
 降り続いていた。

 この街の再建は断念され、既に破棄が決定されていた。

 直接の被害を受けなかった周辺の住民達も、次々と疎開していったため、この街には
 もう殆ど人は残っていなかった。

 そんな無人の街を、シンジは傘もささず、さまよい歩いていた。

 瓦礫につまずき、水たまりの中に転んでも、何事もなかったかのようにフラフラと
 立ち上がり、再び歩き始めた。その目には生気がなく、今、自分がどこを歩いて
 いるのかも分かっていないようだった。

 そして、どれくらい歩いたかも分からなくなった頃、シンジは見覚えのある場所に
 来ていた。

 「ここは?」

 そこは、かつてミサトと二人で第三新東京市を見下ろした場所だった。

 あの時、ミサトは言っていた。『あなたが守った街よ』と。

 確かに、シンジはこの街を守って戦った。シンジだけではなく、レイもアスカも
 命懸けでこの街を守って戦ってきた。

 シンジはこの街が好きだった。嫌な思い出もたくさんある。辛い記憶もたくさん
 ある。

 しかし、この街に来て、初めて友と呼べる人達ができた。そして、かりそめとは
 いえ、家族もできた。レイ、アスカ、ミサト、トウジ、ケンスケ達といった、大切な
 人達もできた。

 この街は、シンジにとって大切な記憶が詰まった、宝石箱のようなものだった。

 しかし今、街の消滅と共に、それらの大切な記憶、大切な人々は皆いなくなって
 しまった。

 今、シンジの目の前に広がっているのは、人々が消え、全ての機能が止まった、
 死んでしまった街だった。そして、それは今のシンジの心そのものだった。

 シンジは、自分の心の中を見ているような気がして、涙を流していた。

 「涙? 僕にもまだ涙があったんだ……。もう涙なんか枯れてしまったと思った
 のに……。僕はこれからどうすればいいんだ……。みんな、みんないなくなって
 しまった……。僕は、僕はどうすれば……」

 シンジは、崖沿いの柵に手を掛け、ぼんやりと下を眺めていた。そこは、切り立った
 崖になっていた……。

 その時、シンジを呼ぶ声がした。

 「碇君、何してるの?」

 「え?」

 シンジは、その声で我に返ったようになり、ゆっくり振り返った。

 「綾……波? どうしたのこんな所に、傘もささずに? 風邪引くよ」

 シンジが振り向くと、すぐ目の前にはレイがいた。シンジ同様、傘もささずに歩い
 ていたのか、全身ずぶぬれである。

 「碇君が呼んでるような気がしたの……」

 「僕が、呼んでる?」

 「ええ。とても悲しそうな声で、泣いてるような声で、碇君が呼んでるような気が
 したの。だから、碇君を探してたら、自然にここに向かって、そして碇君を見つけた
 の。碇君、何をしようとしてたの? もしかして、死のうとしてたの?」

 「…………」

 シンジはすぐに否定できない、否定しない自分に気が付いた。

 『そうか、僕は死のうとしてたのか。……どうでもいい。もう僕なんてどうなって
 もいい』

 「だめ! そんな所から飛び降りたら、碇君死んでしまう。碇君は私のように生き
 返る事はできない。死んだらそれっきりなの。この世界から消えてしまうの。そん
 なのだめ!」

 「…………」

 「碇君、私に言ったでしょ? 私が碇君を助けたんだって。零号機を捨ててまで助け
 てくれたんだって。助けてくれてありがとうって。

 私は、零号機まで捨てて碇君を助けた。そうしてまで碇君を助けたのは、碇君に
 生きていて欲しいからなんでしょ? 死んで欲しくなかったからでしょ? なのに、
 碇君は自分から死んでしまうと言うの? せっかく生きているのに死のうと言うの?
 なぜ? どうしてそういう事するの?」

 「……ごめんよ、綾波。せっかく綾波が命を懸けてまで助けてくれたのに……。
 その事には感謝してる。すごく感謝してる。でも、僕はもうだめなんだ……」

 「だめ?」

 「僕の手は血まみれなんだ……。僕は、大切な人を……初めて僕の事を好きだと
 言ってくれた人を、この手で殺してしまったんだ……。僕は、あの時の感触をはっ
 きりと覚えてるんだ……。僕は……僕はもう……これ以上誰かに裏切られるのも、
 誰かを傷つけるのも、誰かに傷つけられるのも、もう嫌なんだ。これ以上生きて
 傷つくなら、傷つけてしまうなら、僕なんかいない方がいいんだ。僕には生きる
 理由なんか無いんだ。僕なんか……」

 シンジは、自分の手を見ながら震えていた。

 レイは、そのシンジの右手をそっと包み込んだ。

 「綾波?」

 「碇君、そんな悲しい事言わないで、そんな事を……。碇君は悪くない。何も悪い
 事ない。彼は使徒だったんでしょ? 使徒を倒すのが私達の使命。そうしなければ
 私達が滅びてしまう。だから、仕方の無い事なの。誰も、誰も碇君を責める事なんて
 できない。……だから、碇君もそんなに自分を責めないで。お願い、死ぬなんて
 言わないで……お願い」

 そう言って、レイはシンジの手を強く握った。その手は温かかった。そして、その
 言葉も、いつものようなしゃべり方だったが、確かに温かみがあった。

 シンジにとって、それは確かに嬉しかった。しかし、心は晴れなかった。

 「……使徒……確かに彼は……カヲル君は使徒の力を持っていた。でも、人間の心
 も持っていたんだ」

 「人間の心?」

 「うん。カヲル君は優しかったんだ。こんな僕に優しくしてくれたんだ……。初めて
 僕の存在を認めてくれたんだ……。嬉しかった。とても嬉しかった。なのに、なぜ
 カヲル君はあんな事を……。カヲル君が使徒でも良かったんだ。人間として生きて
 くれるのなら、きっと、きっといい友達になれたはずなのに……。それなのに、
 なぜこんな事になったんだ。なぜ僕達が争わなければならなかったんだ……。なぜ、
 人間と使徒は戦わなければいけないんだ? なぜ共存できないんだ? 人間は、
 そこまでして生きなきゃいけないの? 僕にはそんな価値は無い。カヲル君を殺して
 まで生き残る価値なんて僕には無いのに……。カヲル君が生き残るべきだったんだ。
 何もない僕なんかより、誰からも必要とされない僕なんかより、カヲル君の方が生き
 残るべきだったんだ……」

 「そんな事ない。碇君は何も無いなんて事ない。碇君はたくさんの物を持ってる
 もの。私には無い、たくさんの素敵な物を持ってる。私には、それが羨ましい。
 だって、本当に何も持ってないのは私だもの……。それに、碇君は誰からも必要
 とされないなんて事ない。私には碇君が必要だもの。碇君は私にとって、とても
 大事な人だもの」

 「え? でも綾波は僕の事知らないんだろ? ……何も覚えてないんだろ?」

 「ええ、私は何も覚えていない。でも、碇君の名前は覚えてる。碇シンジという、
 あなたの名前は、私にとって、とても大切な人の名前として覚えているの」

 「大切な人? 僕が……でもどうして?」

 「分からない。私は、殆どの記憶を無くしてしまったのに、どうして覚えてるのか
 分からない……。記憶でなく、私の魂に刻まれてるのかも知れない……。碇君の事
 事を」

 「魂?」

 「ええ。私はその魂を受け継いでいる。記憶は無くしても、碇君の事を大切な人
 だと思ってる。だから死んだりしないで。死ぬなんて言わないで。それに、彼も
 言ってたでしょ。碇君は死すべき存在じゃないって。碇君には……私達には、未来
 が必要だって言ってたでしょ? だから、生きて、碇君」

 「どうして綾波がその事を知ってるの? ミサトさんは何もモニタできなかったって
 言ってたのに……」

 「……私はあの時、碇君と彼の戦いを見ていたから……」

 「見ていた? どうやって?」

 「……私もあの場所にいたの。どうしてあんな所にいたのか。どうやってあんな所
 に行ったのか分からない。でも、気が付いたらあそこにいて、碇君と彼が話してる
 のを見てたの。その後、どうやって戻ってきたかも分からない……」

 「……そうか、あの時の反応は綾波だったのか・・。それじゃあ、やっぱり綾波は
 カヲル君と同じなの?」

 「分からない。自分の事なのに、私の事なのに、私は何一つ分からないの。あんな
 所へ行けたのだから、私は人間じゃないのかも知れない……。もしかしたら……
 ……使徒なのかも知れない…………。碇君、私が恐い?」

 レイは、不安げに恐る恐るシンジに聞いた。

 「……正直言って、恐くないと言えば……嘘になるかも知れない……」

 「…………そう……」

 レイはとても辛そうな、悲しそうな顔をした。それは、シンジが初めて見る顔
 だった。その悲しそうな顔を見た瞬間、胸が押し潰されそうになった。

 『こんな顔は、もう二度と見たくない。辛い思いをするのは、悲しい思いをする
 のは僕一人で十分だ。綾波は、あんなにも奇麗な笑顔になれるんだ。綾波には、
 いつも笑っていて欲しい』

 シンジはこの時、心からそう思った。自分自身、辛い思いをしてきた人間は、人の
 悲しみが分かり、優しくなれる。今のシンジもそうだった。

 「でも」

 「え?」

 「でも綾波は、人間を滅ぼそうなんて思わないんだろ?」

 「ええ。私はそんな事しない。できない。碇君が悲しむような事は絶対にしない」

 「なら、綾波を怖がる必要なんてどこにもないよ」

 レイは自分の耳を疑った。目の前で微笑むシンジが理解できなかった……。


 <つづく>


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