かつて第三新東京市と呼ばれていた街……いや、今でもそこは第三新東京市と呼
 ばれてはいる。しかし、そこには都市としての機能は無かった。

 使徒を倒すために零号機が自爆したため、街の大部分は吹き飛んでいた。そして、
 芦ノ湖から流れ込んだ水が、爆心地を中心に溜まりつつあった。

 ……そんな水辺の廃屋の一つに、アスカはたたずんでいた。

 家に帰らなくなって三日、何をするでもなく、ただぼんやりと空を見ていた。

 「……シンクロ率ゼロ。……セカンドチルドレンたる資格なし……。無くし
 ちゃったんだ……何もかも。……もう私には何も無いんだ……」

 アスカは三日間、そんな事を繰り返しつぶやいていた。


 新世紀エヴァンゲリオン-if- 

 外伝・九 アスカ、逃げ出した後

 - Aパート -


 アスカにとって、エヴァを動かす事ができるという事は、世界中から選び抜かれた
 エリートの証だった。そして、その思いが、アスカの高いプライドと性格形成のもと
 となっていた。

 これまでのアスカの人生は、エヴァのためのみにあった。エヴァに乗り、訓練の
 テストを繰り返し、使徒と戦い、そして勝利する。そうする事により、自分の存在力
 を周りに示し、人々に必要とされる事に喜びを感じていた。

 だが、今のアスカはエヴァを動かす事すらできなくなっていた。そのため、これまで
 の人生の目標、生きがい、心のよりどころといった物を全て無くしてしまっていた。

 ただ、ネルフにはいたくなかった。

 このままネルフにとどまれば、弐号機から正式に降りるよう命令されてしまう。
 それだけは嫌だった。そんな事には耐えられなかった。

 どうせ死ぬなら、弐号機のパイロットとして死にたい。

 アスカは本気でそう思っていた。

 ……だから逃げ出した。

 ……ネルフから……全てから……。

 だが、あえてこの街から出ようとしなかったのは、かすかな希望があったからだ。

 もし、まだ自分が必要とされているのなら、きっと探しに来てくれる。

 その微かな希望に全てを賭けていた。

 だが、現実はアスカにとって、あまりに厳しいものだった。

 「……帰らなくなって今日で三日。誰も探しに来やしない……。ネルフの力をもって
 すれば、私一人見つける事くらい簡単なはずなのに……。やっぱり私はもうネルフ
 にとって用の無い人間なんだ……。私一人いなくなった所で、何も困らないんだ……
 私はもう、誰からも必要とされない、価値の無い、いらない人間なんだ……」

 アスカはそうつぶやくと、涙を流していた。やつれたその身体のどこにそれほどの
 涙があるのか、と思えるほど止めどなく涙は流れ続けていた。

 悔しかった。切なかった。寂しかった。

 そして、どうしようもなく悲しかった。

 「……ママ、私、本当に一人ぼっちになっちゃった。一人で生きていけるんだって
 言ってても、一人じゃ何もできないのに……とうとう私、一人ぼっちになっちゃっ
 たんだ。どうしよう……私もママの所に行くのかな? このままここで、誰にも
 気付かれずに死ぬのかな……誰にも悲しまれる事なく……やだな」

 アスカは涙を流しながら、ゆっくりと周りを見渡してみる。

 そこには、雨水の溜まったバスタブがあった。

 「……お風呂か……そういえばこの三日間入ってなかったっけ……今まで一日だって
 お風呂に入らなかった事なんてなかったのに……。心は使徒に汚されちゃったけど
 最後に身体くらいは綺麗にしておきたいな……」

 アスカはふらつきながらも立ち上がり、ゆっくりとバスタブに近づいていった。


 その時、遠くから自分を呼ぶような声が聞こえてきた。そして、その声はシンジの
 声に良く似ていた。

 「ふふ……幻聴が聞こえてくるようになるなんて、いよいよ私もおしまいね。
 だいたい、何でよりによってシンジなのよ? どうせなら加持さんだったら良かった
 のに……」

 しかし、自分を呼ぶ声はさらに聞こえてくる。しかも、少しずつその声が大きく
 なっているようだった。

 「まさか……?」

 アスカは、瓦礫の隙間から声のする方を覗いてみた。すると、かなり遠くから、
 こちらに向かって歩いてくる人がいた。まだはっきりとは見えないが、それは、
 声からして間違いなくシンジだった。

 「シンジ? 何でこんな所に……まさか私を探しに? ……だって私はもうネルフ
 には必要ないはず……そんな私を何で? そ、それに私はこんなだし、ファースト
 は……死んだんだから、絶対シンジには待機命令が出てるはず。シンジがこんな所
 にいるはずがない」

 「……でも、あのシンジは幻なんかじゃない。幻覚なんかじゃない。確かにここに
 いる。そして、私を探してくれてる……」

 その事実が嬉しく、アスカの涙は先ほどまでのものとは違う涙になっていた。

 しかし、シンジの顔が分かるほどにシンジが近づいてくると、アスカはとっさに身を
 隠してしまった。

 『何で……どうして私は隠れなきゃいけないの? せっかくシンジが探しに来て
 くれてるのに、なぜ隠れるの?』

 『だめ。こんなみっともない姿、シンジには見せられない。こんな負け犬のような
 姿、シンジにだけは見られたくない』

 アスカの心の中で、二人のアスカがせめぎあっていた。

 『シンジがすぐそこまで来てくれてるのよ。今出ていけば一人じゃなくなる。寂しく
 なくなるのよ。どうしてそれができないの?』

 『だめよ。私は惣流アスカラングレーよ。私はいつも強気でなくちゃいけないの。
 いつも綺麗でなくちゃいけないの。いつも自信にあふれてないといけないのよ!!』

 アスカは、少女時代に様々な辛い目に遭ってきた。そのため、その心は誰よりも
 弱かった。そして、その心を守るため、強気なアスカという人格を自ら作り出し、
 攻撃的な性格の鎧で弱い心を守ってきた。だが、自ら作り出した人格に依存する
 あまりに、自分の本心を素直に出せなくなってしまっていた。

 確かに、今、シンジにすがりたい、助けて欲しい、と思ってはいるのだが、プライド
 が邪魔をして、素直になれずにいた。

 『私はアスカよ。今、寂しさに負けてシンジの前に出てしまったら、それはもう私
 じゃない。シンジに負けた、ただの女になってしまう。私からは絶対に行っては
 いけないの。シンジから言わせなきゃだめなのよ。そうしないと私が私でいられなく
 なる』

 アスカが自分の中で戦っている時、シンジはアスカの横を通り過ぎてしまった。
 その背中に思わず手が延びたが、届くはずもなかった。

 シンジはゆっくりと遠ざかっていく。自分の名前を呼びながら。

 アスカはシンジを呼び止めたくて口を開く。しかし、声は出せない。

 アスカの涙が、再び悲しみの涙に変わる。

 『いいの? このままシンジが行ってしまってもいいの? 今シンジを呼べば私を
 見つけてくれる。一緒に帰る事ができる。でも、今声を掛けなかったら、もう一生
 シンジには会えない……そんな気がする。それでもいいの?』

 『だめよ。それだけはできない。今シンジの前に出てしまったら、私はもうシンジ
 から離れられなくなる。そんなのはアスカじゃない。私じゃないのよ』

 『……お願いシンジ、早く行って。私の決心が変わらないうちに……』

 アスカはシンジの姿を見たくなかったが、遠ざかっていくシンジから目が離せな
 かった。

 その時、アスカの足元に激痛が走った。

 何かと思い見てみると、こぶしほどもあるドブネズミが、アスカの足にかじり
 ついていた。そして、そんなネズミが数十匹、アスカを睨んでいる。アスカの事を
 餌だと思っているのかも知れない。

 アスカは本能的に恐怖を感じた。それは理性で抑えきれるものではなく、悲鳴を
 あげて廃屋から飛び出した。

 その声を聞き、シンジは振り返った。そこには、道の真ん中でうずくまり、震えて
 いるアスカがいた。


 「アスカ!!」


 <つづく>


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